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旧小萩神社社殿の部材 上社の宮大工原家の作と判明
2025年1月23日
岡谷市長地小萩の真秀寺が保管する旧小萩神社社殿の部材が、諏訪大社上社の棟梁を代々務めた原家による作と判明した。同寺が部材を引き受けたことを伝える本紙記事を切っかけに、諏訪市博物館が原家から同館に寄託された資料の中にあった図面と現物を突き合わせて確認した。宮大工としては、どちらかといえば現在の大社の拝殿などを手がけた立川流や大隅流に関心が寄せられてきたが、調査に当たる同館学芸員の三嶋祥子さんは「こうした話題を通じて地元の皆さんにも原家を頭に置いてもらうことで、更なる研究の進展にもつながれば」と話す。
旧小萩神社は、現在の市営住宅・小萩団地の場所にあったとされる。横川区誌などによると、小集落での運営負担などから1960年、同じ西山田3区(横川、中村、中屋区)が祭る出早雄神社に合祀(ごうし)され、現在の出早雄小萩神社となった。これに伴い、社地は市に売却、拝殿は姿を保ったまま岡谷招魂社(成田町)に買収・移築されていた。
移築後は招魂社の拝殿としての役割を果たしてきたが、経年劣化による取り壊しに伴い、同社の役員らが部材は後世へ残そうと、引き取り手を模索。その際、かつて小萩神社の別当寺として同社を管理してきた歴史を踏まえて真秀寺の小林崇仁住職も手を挙げ、昨年六十数年ぶりに地元への帰還が実現した。
真秀寺にあるのは木鼻2点、大虹梁(だいこうりょう)2点、脇障子2点の計6点。原家の末裔(まつえい)から諏訪市博物館に寄託された資料は確認が済んだ分だけでも約1700点に上るといい、その中に数多く「小萩神社」の字が登場したことからピンときた三嶋さんが、現地で確認すると図面と完全に一致した。
三嶋さんによると、原家は江戸時代後期に立川流が台頭してくるまで上社関係の建築物を基本的に手がけた。その後、明治期になると13代当主の善造(1829〜1914年)が原家の立て直しを図り、この頃から、諏訪郡内を中心に小萩神社を含む多くの社寺、一部の学校なども造り上げてきた。
小林住職は「記事を切っかけに、点と点が線につながったのはありがたい。歴史を知ることが、遺物を守り伝えるのにつながれば」と期待。同寺は檀家(だんか)を持たず、住民らでつくる奉賛会の手で守られており、久保寛男会長は「こうして注目が集まるのは、護寺をしている我々の励みになる」と笑みを浮かべる。
(写真は、脇障子を見る久保会長)